奈良県

西新子(にしあたらし)(五條市西吉野町)

旧西吉野村出身のOさんから「私の実家を描きに来ませんか」とのお誘いを受けた。西吉野の実家は幕末に起きた「天誅組」の変の折に、その宿舎となった由緒ある建物だという。しかも周辺は一面の柿畑で、今が紅葉の盛りと聞いて心が動いた。Oさんの案内で西新子(にしあたらし)という集落を訪問した。天誅組は1863年(文久3年)の8月から9月にかけて、奈良県南部で戦闘を繰り広げたが、西新子の白銀岳(銀峯山=ぎんぷせん)に本陣を置いたこともある。

西新子の柿畑@(五條市西吉野町)09.11.15   36×51cm      ●
今は五条市の一部となった旧西吉野村は日本一の柿の産地で、小さな谷越えにOさん宅を見渡すことができる場所へ行くと、目の前の山全体に柿畑が広がり、西日を受けて真っ赤に染まっている。実はこの絵はこの日の一番最後に描いたものだが、これほどの柿紅葉を見るのは初めての経験であった。正面の山が天誅組が陣を張った銀峯山。

この絵を見て京都府木津川市の岡本崇さんが詠まれた俳句が、第4回天誅組俳句(「さきがけ」第19号=10年7月)に入選したとの連絡をいただいた。

「山麓を埋め尽くしたる柿紅葉」

Oさん宅@(五條市西吉野町)09.11.15   F6
山一面の柿畑に陽が当たるのが午後とのことだったので、午前中はOさん宅をアップで。Oさん宅は柿畑のある山の斜面に長々と石垣を築き、その上に建っていた。下から見上げると、まるでお城(陣屋)を思わせる造りである。いかにも戦闘に強そうで、かつてこの家を宿舎に使った天誅組の意図が分かるような気がする。「人力にしか頼れない時代に、どこからこの石を運んできたのだろうか」とOさん。

Oさん宅A(五條市西吉野町)09.11.15   F6      
柿畑の中に建っていることを表現したくて、角度を変えてOさん宅をもう1枚。このアングルから見るとまるでお城である。吉野には林業で栄えたお宅が多いが、Oさん宅も林業以外に柿の栽培を始めたのはそんな古いことではなく、以前はミカンやお茶を作っていたという。それより昔は綿花を栽培、そこから綿実油を製造、また菜種油も手がけていたそうで、昔から換金作物の栽培に力を入れていたわけである。

Oさん宅B(五條市西吉野町)09.11.15   36×51cm      ●
Oさんは私の訪問に備え、谷を挟んで向かい側にある持ち山を2日がかりで切り開いて、スケッチのための場所を作ってくださっていた(右の写真)。このポイントからだとOさん宅が間近に見えるが、生い茂った木々の枝が邪魔になるとの判断で、木を切り、土を削って椅子を置くスペースまで作っていただいた。こうした待遇を受けるのはもちろん初めての経験で、感謝し恐縮しながら、その期待に応えるため、Oさん宅の全容を丁寧に描いた。写真では分かりにくいと思うが、中央の空間に私のスケッチ姿が小さく写っている。

西新子の柿畑A(五條市西吉野町)09.11.15   F6
この日の午後にスケッチした場所も一面の柿畑だった。そんな雰囲気を表すため、手前の柿の木も入れて、もう1枚描いた。その間、Oさんは谷の向こうに見える自宅の周辺で柿の収穫作業をしておられるようで、「場所を移動しますよ」とか「スケッチ終わりました」などと携帯電話で連絡を取りあった。お土産にも採れたての柿をたくさんいただき、何から何までお世話になった。

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